アドラーの『嫌われる勇気』という本を読んだので感想を書きます。
有名な心理学の本で、しばらく前から気になっていました。本自体は古典と言って良いほどの有名どころです。
読む前は、アドラー心理学では、トラウマを否定しているというのが1つの大きな特徴らしく、私はまさにこのことが引っかかって、なかなか読む気になれなかったのです。
でも、読んでみて、共感できるところもたくさんありました。
ただ、ちょっとどうかなあと思うところもありました。
というわけで、感想と意見などを書こうと思います(注:辛口意見もあります)。
長くなりそうなので何度かに分けます。最初の今日は「トラウマ否定」についてです。
アドラー『嫌われる勇気』
まず最初に、アドラーの『嫌われる勇気』について簡単にご説明します。以下が私が読んだ本です。↓
アドラー『嫌われる勇気』と言っても、アドラーご本人が書いたものではなく、岸見一郎さんと古賀史健さんの共著です。
「自己啓発の源流「アドラー」の教え」という副題がついています。
とても人気のロングセラー本のようで、アマゾンのレビューも、3000を超えていました。
それでは本題です。
トラウマ否定について。
まず、私が読む前から引っかかっていた「トラウマを否定している」ということについて書きます。
もっと正確に言えば、「フロイトのトラウマ理論を否定している」と言った方が良いかも知れません。
心に負った傷(トラウマ)が、現在の不幸を引き起こしていると考える。人生を大きな「物語」としてとらえたとき、その因果律のわかりやすさ、ドラマチックナ展開には心をとらえて放さない魅力があります。
上記のようなトラウマ理論を否定しています。
そうではなくて、アドラー心理学では、現在の不幸(に見える現象)でも、原因ではなく目的というとらえ方をしています。
不幸の目的とは?
本の中に出てきた、自室に閉じこもる青年を例に挙げます。いわゆる「ひきこもり」です。
これを、フロイト的トラウマ原因説で考えると、
自分は両親に虐待を受けたから、社会に適合できないのだ。
となりますが、アドラーはそうではなく、
彼のなかにそう考えたい「目的」があるのです。
と考えます。そして、「外に出ない」という目的があるだろうと指摘しています。
つまり、「外に出たくないから、両親に虐待を受けて社会に適合できないことにしている。」ということです。
そして、さらに、「なぜ外に出たくないか」というと、引きこもっていることで、両親があれこれ心配したりして、両親の注目を一身に集めることができるから、などというもっと深い目的も出てきます。
この心のカラクリに気づくことは、確かに「心の回復」へのきっかけけの一つになるだろうと思います。
私個人の例:アドラーに同意する点
私も、以前は、「自分は毒親育ちだから、自分の人生は毒親に汚染されていて、完全に終わっている、不幸は全部毒親に育てられたせいだ。」と思っていました。
カウンセラーに、「どうして不幸だと思っていたいの?」と聞かれてハッとしたことがあります。
私には、自分が不幸だと思っていたい目的があったんです。
「人と関わらなくて済む」という目的です。
人と親密になると、私は「我慢して疲れる」とか、「どうふるまっていいかわからなくて緊張してしまう」ので、「人と関わらないで済ますという目的」は、自分にメリットがあったんです。
「人と関わらないで済ますために、毒親育ちで汚染された人生、完全に終わっていると思うことにしていた」という感じです。
一理あります。そして、このように考えたことで「希望」というものを感じたのも事実です。
「私は変われるかも知れない」という希望です。
自分の不幸の裏には、隠れた本当の目的があるのだということは、とても共感しました。
ちょっとどうかしらと思う点。
ただ、「ちょっとどうかしら?」と思うこともあります。
トラウマ否定というのは、アドラーに限らず他の本でも見かけた思想です。
かなり若い頃に自分の心に問題があると気づきながら「トラウマ否定」した方が、普通で賢いまともな人間に思えたので、トラウマ否定しました。
そして、その結果、自分の心を長年無視しし続けることになってしまいました。
過去に対する苦痛を認めることこそ変化への一歩だった
トラウマという言葉自体、ちょっとどうかと思うので、「過去に対する苦痛」と言い換えてみます。
私は、自分の「過去に対する苦痛」を否定したことで、むしろ心の回復は遅くなったと思っています。
自分をまともな人間だと思いたくて「過去に対する苦痛」を否定していました。
本当は感じていたのに。
「いつわりの良い子」「いつわりの平和」を演じ、いつも我慢で本当にとても苦しかったです。
「過去に対する苦痛」にきちんと向き合って癒したら、癒した分だけ「過去に対する苦痛」は軽くなっていきました。
アドラーが言うように、トラウマ=「過去に対する苦痛」というのも本人である私の思い込みにすぎないとは思います。
でも「今」それを「感じている私」がいるわけです。
この本では「トラウマは思い込みだよ」ということを言いたかっただけかも知れません。
確かにそういう面もあります。
でも、トラウマは、本人がコントロールできないほど過剰反応してしまうところに問題があるわけで、実際に感じているのに「ない」とか否定されると、ショボーンとしてしまいますね。
この点は、アドラーだろうが誰だろうが、「感じている自分自身を信頼するところ」から始めるべきだと思いますね。
ですから、トラウマがあると思っている人にとっては、「ある」で良いのではないでしょうか?
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おわりに
トラウマって、結局「ある」と思っている人にとっては「ある」し、「ない」と思っている人にとっては「ない」というのが妥当だと私は思います。
その人が自分でどう感じ、どう思っているかが大事で、トラウマ否定が自己否定に繋がるなら、むしろ否定しないで「向き合う」方がいいかなと。
トラウマはないのだと否定されて「そうか! なかったのか、自分の思い込みだったか!」とか思えるなら、トラウマ否定も有益なのかと思います。