私は、カレン・キングストンの『ガラクタ捨てれば自分が見える』という本に初めて出会ったとき、自分の部屋を断捨離することへのスイッチが入りました。
一体どんな言葉が、私を断捨離へと駆り立てたのでしょうか? いくつかありますが、今日はそのうちの一つについて書きます。
「身の回りをゴミだらけにしていると、自分を不当に扱う人が集まってくる」
私は、このくだりを読んだとき、「何としてでも自分のまわりのゴミを片付けなければならない」と思い、断捨離熱に火がついたのです。
というのは、やはり思い当たるフシがあったからです。
人は、私が私を扱うように、私を扱う
ちょっと、カレンの『ガラクタ捨てれば自分が見える』から、今日のトピックに関する部分を引用します。
世間の人は、あなたが自分を扱うようにあなたを扱います。あなたが自分の価値を認めて、自分を大切にしていれば、人もあなたを大切にしてくれるでしょう。もしあなたが自分をほったらかしにして身の回りをゴミだらけにしていると、まわりにはあなたを不当に扱う人が集まってきます。(後略)
初めてこれを読んだとき、ギョッとしたのと同時に、何だか不思議だったのです。というのは、私は、身の回りをゴミだらけにしていることで、自分を粗末に扱っているつもりはなかったからです。
でも、客観的には、ゴミだらけの部屋で暮らしているということは、自分で自分に「ゴミを与えている」ということになるわけで、結果として自分を粗末に扱っているように見えるわけです。
まず、このことに、一種のカルチャーショックを受けました。
このことを象徴するようなエピソードがありますので、書いておきます。
6畳1間に2台目のベッドをくれた友達
20代の頃、私は6畳1間のアパートに住んでいました。その部屋にベッドを置き、冬はこたつ、ソファもあり…大物家具だけでも一杯一杯。汚部屋に近いものがありました。
同じアパートに友達が住んでいました。お互いの部屋を行き来し、たまにおしゃべりをしたりしていたものです。彼女が結婚して引っ越すことになりました。
それで、私にベッドと大きなテレビ台をくれると言うのです。
すでに私は、ベッドを持っていました。それなのに、自分の要らなくなったベッドをくれるというわけです。
ただでさえものが一杯ある汚部屋。そこに他人の粗大ゴミがやってきたわけです。別の言い方をすれば、彼女は私の部屋に、自分のゴミを捨てたのです。
断れず、ゴミを引き取った私
ところで、彼女が「ベッドとテレビ台要らない?」と聞くのもどうかと思いますが、言われる私も私です。そして、断われず、「ありがとう」と言ってもらってしまったのです。
ただ単に、まだ使えるからモッタイナイという感覚でした。少し嫌な言い方ですが、私がもったいながりやさんだから、そこにつけこまれた、とも言えます。
私は、ベッドはもらってくれる人を見つけました。それから、テレビ台は、その後10年近く、最初の結婚をしてからも使い続けていました。
彼女の出したゴミにとても手間ひまをかけました。
ベッドは黒いパイプベッドで、テレビ台もどっしりと大きな黒。もちろん、全然お気に入りではありませんでしたが、その他のことも、すべておかまいなしだったので、もらったのです。
結婚した彼女の新居に一度遊びに行ったことがあります。フローリングの床に、シンプルなソファとラグだけを置いた、スッキリしたリビングでした。
「もうあまりモノを持たないでシンプルに暮らしたいの」と言っていました。その彼女の部屋を見たとき、ちょっとカチンときました。
彼女とはそれっきりになりました。私も特に連絡をしなかったのですが、相手からも連絡は一度もありません。
身の回りをゴミだらけにしていると引き寄せられるもの
汚部屋に暮らしていたころは、とにかく「もらいもの」が多かったのです。しかも、プレゼントではなく、「要らないから」「要らなくなったから」というモノです。
不思議なもので、人は不要品を、自分よりも「上」だと思っている人にはあげないものです。「下」だと思っている人には、その人がいくらモノをたくさん持っていてもくれるのです。
身の回りをゴミだらけにしていると、他人のゴミも引き寄せてしまいます。
現在は「要らないものは要らない」と断れるようになってきましたが、今でもまだこれは課題です。不要品をくれる人は、まだ身近にもいます。
不要品をもらったときは、「今、自分は断捨離すべき不要品を持っていないだろうか?」と自問してみると、必ず自分でも「何とかしなくちゃ」と思って持っているガラクタが、いくつも思い当たります。
物に向き合うと見えてくる自分の本音
先に書いた、友人からもらった余分な家具の話ですが、それをパッと目にした第一印象は、「要らない」というわけですが、「でも、もったいない」「でも、断ると悪い」など、第一印象をくつがえすような「第二の感情」がくっついています。
「要らないものを要らない」「嫌なことは嫌」と断れない、私のようなタイプの人は、「でも、もったいない」「でも、断ると悪い」という余計な「第二の感情」がうごめいていて、本来の本音である「要らない」という自分の本音をかき消しています。
この「余計な第二の感情」こそ、自分の部屋にゴミやガラクタを生み出している張本人だと思います。
もし、私が自分の本当の本音である「第一印象」「第一の感情」だけに従っていたら、「せっかくだけど、ベッドはあるから要らないよ」と断ることができ、面倒なことは何もなかったハズなのです。
断捨離に取り組むと、何が自分の本音で、何が邪念なのか、物だけでなく心まで整理されてくるのです。
他人のせいではなく、自分でコントロールできること
ですから、不要なベッドを手にしたのは、友達のせいではなく、やはり私の責任だと思うのです。
「もったいない」も「断ると悪い」も、友達のではなく、私自身の感情だからです。
「もったいない」も「断ると悪い」も、本音ではない邪念だと気づいた瞬間、「従う必要のない感情だ」と腑に落ちるのです。
その結果として、不要品の処分は、自分のコントロールの配下に置くことができるというわけです。
まとめ
今日は、私の断捨離の引き金となった、カレン・キングストンの本の言葉から「身の回りをゴミだらけにしていると、自分を不当に扱う人が集まってくる」ということについて、書きました。
私が断捨離の決意をかためたキッカケとなったカレンの言葉はいくつかあるのですが、今日の言葉はその代表格の一つでした。
この言葉は、断捨離の引き金となると同時に、とても大切な教訓を与えてくれています。
それは「人は、私が私を扱うように、私を扱う」ということです。私が私を大切にし、ゴミを自分に与えないようにすれば、人も私にゴミを与えなくなるのです。
そして、私が私を大切に扱うということは「私の本音を聞いてあげる」というのが一番なのではないでしょうか? (本音以外は全部ゴミかも?)
私が自分の本音を大切にしていれば、人も私の本音を大切にしてくれるに違いありません。