先日、わが家の愛猫が旅立っていきました。
18歳という高齢で様々な病気をかかえていたのでそれなりの覚悟はあったのですが、やはり死が現実になるというのは格別なつらさがありました。
このことをブログに書くかどうかは悩みましたが、猫が亡くなって以来、猫を看取ったという他の方のブログや記事を読みあさり、気持ちの整理に助けられましたので、私も書いてみることにします。
死は急にやってくる。
先日、足腰が弱った猫のために、部屋を模様替えしたという記事を書いたばかりでした。↓
部屋の模様替え自体は記事よりももっと前でしたが、上記の記事をアップしてから間もなく無くなってしまったのです。
高齢でたくさんの病気を抱えていた猫でしたから、それなりに覚悟はあったつもりでしたが、「まさかここまで早いとは」思っていなかったのです。
世話に手がかかり面倒だと思ったこともたくさんありました。でも、今はその面倒でさえ懐かしいです。
家の中がガランとしてやけに広く感じられます。無くなってみて、猫が与えてくれていたエネルギーの大きさを感じています。
死期を悟っていたのか、先月からやけに甘えん坊になっていました。やたら膝に乗りたがり、乗ると長い時間滞在していました。
私は猫を膝に乗せて仕事したりブログを書いていたことも何度もありました。
自分の人生にポッカリと大きな穴が開いたようで、本当にとても寂しいです。
どうしても残る後悔。
私は子供時代、犬を亡くし、このショックからなかなか立ち直れませんでした。
それで、「もし今度、犬や猫を飼うなら、後悔ののないように、できるだけのことはしよう」と思っていました。
でも、やはり「ああすれば良かった」「これはしなければ良かった」と、後悔は残りました。この気持ちは仕方ないのかも知れません。苦しいですが。
このことを書いた理由は、私が他の人の記事の中で後悔が残ったという話を読んだとき、「後悔して、それに苦しむのは、自分だけではなかったのだ。」と思って、少し気がラクになったからです。
救いになる言葉。
次に、私が自分で色々考えているうちに辿り着いた、救いになると感じた考え方について書きます。
それは、「猫より飼い主である私たちが先に死ななくて良かった。」ということです。
猫や犬など、動物を責任を持って飼うとなると、動物が死ぬまで面倒を見るのが飼い主の仕事だと思います。
そう考えると、動物の死に直面するのは、絶対に起こることです。
逆に、動物よりも先に飼い主が死んだら、動物は何よりもつらいのではないかと思います。
自分が先に亡くなって猫を悲しませなくて良かったのだと思うことにしました。
泣くと楽になる。
猫が亡くなったその日の夜は、夫と二人で間に猫をはさんで同じベッドで川の字で寝ました。私は好きなだけ泣きました。
悲しいとき、寂しいときなど、泣きたければ素直に泣いた方がいいです。
悲しさや寂しさが消えるわけではありませんが、泣かないで押さえつけると、さらに苦しさが伴います。
感情が出るがままに泣くと、泣いている時はつらいけど、感情が出ると「悲しいし寂しいけど、苦しくはない」 という状態になります。
私は、それで、家の中の猫の思い出が残る物を見るたびに、涙が出るがままにしていたのです。
夫はしばらく泣きませんでした。夫は、以前にも別の猫を亡くし、そのときは半年くらいも泣けなかったそうです。
泣くのが恥ずかしかったと言います。
「悲しい時は泣いた方がいいよ。男の人は、子供の頃から『男だから泣くな』とか言って育てられるから、泣くのを我慢しちゃうけど、男だから悲しくないっておかしいよ。だから泣いた方がいいよ。」
と私は、夫に泣くことをすすめました。
そのせいかどうかわかりませんが、夫はしばらくして泣いていました。
応援に感謝してます♡
おわりに
猫はペット霊園で立ち会い火葬をし、小さな骨壺にいれて連れて帰ってきました。火葬前に花を買ってきて、猫の周りに好物と一緒に飾ってあげました。
人間と同じような火葬をし、夫と二人で骨を拾いました。
家に庭のないマンション暮らしだということもありますが、亡くなった後、人間同様きちんとしてあげることは救いになります。
しばらく納骨はせず、自宅で供養するつもりでいます。
これからは少しずつ、いらなくなったものも片付けていくつもりですが、片づけは、少しずつにします。
また、最後の日は、病院へつれていきましたが、最後の瞬間は、夫と二人で自宅で看取ることができたのは、良かったことだと思っています。
それから、我が家には、もう一匹猫がいます。この子がいてくれるのが救いです。