テレビ番組「ウチ 断捨離 しました」で、他のお宅の様子を見ていて、ふと気づいたことがありました。本来の断捨離とはあまり関係ない、「お金」に関することです。
一緒に見ていた夫が、断捨離のストーリーの流れとは全く別のことを思ったらしく、断捨離する散らかったお宅を見ていて、「お金があるからこんなにモノが買えたんだ。」なんて言い出したのです。
この視点は、私にとって、新しい視点でした。
でも、そりゃそうだ、って、言われてみれば納得。なぜなら、本当にお金がなかったら、モノなんて買えないからです。
「お金持ちの家は片付いているけど、貧乏人の家は散らかっている」というのはただのイメージ。
ときどき「お金持ちの家は片付いているけど、貧乏人の家は散らかっている」というようなフレーズを見聞きします。
片付けると金運がアップする、とかいうところで出てくるフレーズです。
私自身も「なるほどなー」なんて、鵜呑みにすると同時に、断捨離に励むモチベーションにもしていました。
そして、テレビドラマなどで、貧乏な家を演出するために、部屋をゴチャゴチャとモノで一杯にするのだとか。
でも、これって、よくよく考えてみたら、テレビ番組の小細工であって、リアルな現実ではないですよね? 「演出」なわけですから。
ですから、このことを理由に、「片付いている家=お金持ち」「散らかっている家=貧乏」という図式を導き出すのは、オカシイのではないかと思いました。
このイメージづくりは、片付け商品や風水商品を売るために「金運がアップ」をうたいたい為のマーケティング戦略かも知れないと思った方が良いと思いました。
断捨離や片付けをすると、金運がアップするということもあるとは思います。あながち間違いではないと思っています。
ですが、「片付いている家=お金持ち」「散らかっている家=貧乏」は、現実とはズレた、単なるイメージだと言いたいのです。
散らかっている家は、貧乏なのではなく、散らかせる物を買えた分のお金があったというのが現実だと思います。。
リアルな極貧の家も片付いている
実は夫がそう言い出した理由は、子供時代の極貧体験にあったようです。トイレやキッチンが共同の長屋の1間に家族5人でくらしていた時期があったそうです。
そして、リアルにお金がないと、本当に何もモノが買えず、片付けるべきモノはないということで、全然散らかっていなかったとのこと。
「こんなに散らかせるなんて、この家は裕福なんだよ。」
そう、夫は言いました。
片付けとお金持ちかどうかは関係ない。
何もモノが買えず、片付けるべきモノがない、極貧状態の部屋には断捨離なんて不要で、断捨離をしなければならない不用品なんて、ほとんどないのです。
そう考えると、「お金持ちの家は片付いている」「貧乏人の家は散らかっている」というのは、単なるイメージだけで、片付けとお金持ちかどうかは無関係と言わざるをえません。
物が多過ぎて散らかるのは貧乏ではない。
物が多過ぎて散らかってしまうのは、もらいものということもありますが、「お金持ちかどうか」ということに焦点をあてれば、貧乏ではないのです。
散らかせるだけの物があるということは、それだけの物を買えるお金があるという、相応にお金持ちの家なのです。
断捨離も片付けも汚部屋もお金持ちのたわごと。贅沢な悩み。
「本当にお金がなかったら、モノなんて買えないし、散らからない」という夫の言葉から、別世界を見せつけられたような気がしました。
私は、そこまでの現実を味わったことがなかったから、そういう世界を想像できなかったのです。
夫は私より6つ年上の50代後半で、別にそんなに昔の人ではありません。ですから、夫の体験は、「激レア体験」ではあるとは思います。
それでも、夫が見せてくれた「お金がなさすぎて散らからない世界」は、私にとって、一種のカルチャーショックでした。
そういう視点から見れば、一大事だと思い込んでいた「断捨離も片付けも汚部屋」も、単なる贅沢な悩みに思えてきます。
おわりに
それで、「これを捨てたら後悔してしまうかも」とか「どうやったら片付けられるのか」とか、とても小さな悩みだったことに気づきます。
例え汚部屋だったり片付けられなかったとしても、「物を買えるだけのお金があるという、幸せの枠の中」に、すでに自分は存在していたことに気づかされたのです。
私たちは、すでに、幸せだったんですよね?