晴れやかブログ

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罪悪感の裏側にあった感情に気づいた結果(ペットロス)。

先日、猫が亡くなってから、悲しみとは別に、罪悪感に苦しんでいました。

胃やお腹など、腰回りが痛くて、どうしたものかと思っていたのです。

それが、ふと、罪悪感の裏側にあった「ある感情」に気づき、受け入れた結果、安堵の涙が流れ、気持ちが少しラクになったので、このことについて書きます。 

 

罪悪感の裏側にあった感情とは?

まず、今回わたしが出会った「ある感情」というのは、「清々した(せいせいした)なあ」という感情でした。

「清々したんだねー、そうだったんだねー。」と、やっと自分の感情を認めてあげることができました。

罪悪感を作り出していたもの。

愛猫が亡くなったというのに、「清々した(せいせいした)」だなんて、一体「どういうつもりなの!?」「この人はどうかしている。」などと思われるでしょうか?

「人間として冷たい。」「全く共感できない。」「もっと悲しんでしかるべきだろう。」「ピアノなんて買って楽しんでどうかしている。」

「本当は全然悲しくなんてなかったんだろ?」「もっと長く喪に服すべきだ。」などなど、もっと辛辣な批判もあるでしょう。

でも、これらの批判意見は、全部わたしの心の中で響き渡っていたことです。

「もっと苦しめ、もっと悲しめ! お前は本当に猫が好きだったのか!?」「飼い主失格!」「猫を飼う資格ない。」なんて声も聞こえました。

これらの、自分自身の中でこだましていた批判やダメ出しが、罪悪感の原因になっていました。

「清々した(せいせいした)」なんて感じてはダメだと、自分の素直な感情を禁止してがんじがらめにしていたのです。

なぜ「清々した(せいせいした)」のか?

ところで、なぜ「清々した(せいせいした)」のか、というと、色々あります。

猫と会えなくなってしまったことは淋しいことです。

ただ、やはり、今こうして思い返してみると、病気の猫の世話や介護のある生活がそれなりに煩わしかったのです。

病気の子を置いて散歩に出かけるのでさえ「申し訳ないなー」と、不自由を感じていたということもありました。

何度も病院へ連れて行ったり、決まった時間に薬を飲ませたり、週に何度か点滴をしたりすることにも縛られているという感じがありました。

人間の食べ物に興味がある子だったので、わたしが何か食べるとすぐにやってきて欲しがり、落ち着いて食事ができなかったということもありました。

粗相をするようになってからは、部屋に散らかった糞便の掃除にも追われました。

毛繕いができなくなったので、猫のお尻まわりを拭いてあげることもありました。

このような煩わしかった活動がなくなってみると、やはり「清々した(せいせいした)なー」と、感じたんです。

「清々した(せいせいした)」自分を許せなかった理由。

「清々した(せいせいした)なー」という感情は、ごく自然にわき起こってきたものです。

「悲しい」「淋しい」と同じように、「自然に」です。

でも、「悲しい」「淋しい」は認めて受け入れられても、「清々した」は認めてあげられなかったのです。

認められなかった理由は「自分が愛の足りない、動物に冷たい悪人」に思えたからです。

わたしは、「いい人」「善人」でありたかったのです。

愛猫が亡くなったのに「清々した」だなんて、自分自身の残酷な一面を見てショックを受けたような気がしたのです。

それで、上述したように、さまざまな批判で自分を攻撃し、自分に罰を与え、罪悪感を作り出していたのです。

散歩に出かけて「わたしは自由だなあ」などと感じるたびに、罪悪感がわたしに罰を与えてくれていました。

そして日を追うごとに苦しくなっていったのです。

「清々した(せいせいした)」自分を認めるまで。

罪悪感でいたたまれなくなったとき、夫とこのことについて話す機会がおとずれました。

夫は猫が亡くなったばかりの頃、「苦しんでいる姿を見ることがなくなってホッとした。」と、まるで善人のようなことを言っていました。

そのことを指摘して、わたしは、

「わたしも「ホッとした」けど、「苦しんでいる姿を見ることがなくなってホッとした」んじゃなくて、「面倒な世話をしなくてよくなってホッとしたの。わたしは「いい人」でも「善人」でもないの。」と言いました。

でも、夫も面倒な世話がなくなってホッとした面はあったと言ってくれたのです。

夫と「ホッとした。」という話をシェアしたことで、1つわたしは自分の感情への禁止行為をゆるめることができ、安堵感に浸りました。

その夜、ずっとこの安堵感をかかえたまま寝たのです。

朝型、ふと気づくと、薄ボンヤリとした意識の中で、「清々した(せいせいした)んだねー、そうなんだね、清々した(せいせいした)んだねー。」と声が聞こえたような気がしました。

「清々した(せいせいした)」という感情が溶け出すように涙がドーッと流れてきました。

押さえつけていた感情は、涙とともに流れ出てくることがあります。

あたたかい涙でした。

そして、宇宙に満ちあふれている愛とでもいうような、不思議なあたたかな安心感のようなものが、わたしの内側に流れ込んできたような気がします。

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「愛を受取るというのはこういうことか。」と感じました。

善とか悪ではなく、「清々」というのは、感じてもOKな感情なのだと、やっと1つ自分を許すことができました。

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おわりに

今日は、罪悪感の裏側にあった感情に気づいた結果というタイトルで書きました。

罪悪感の裏側の感情はまだ他にもあります。例えば「猫が死んだのは自分のせい。」などです。

でも、そのうちの1つが解けて、その分、気持ちをゆるめることができました。

追記

この記事を書き終えて、気持ちがゆるんだはずが、かえって罪悪感を増幅させてしまいました。

今は胃が痛くて、日常的な作業をするのが億劫など、無気力で仕方ありません。罪悪感も悲しみ同様、味わい切った方が良い感情なのかも知れません。

しばらくは罪悪感と一緒に暮らしてみるというのも悪くないかも知れないと思い直しました。

この記事がきっかけで、罪悪感を増幅させたというよりも、押さえ込んでいた罪悪感が出てきてくれているのかも知れないですね。