晴れやかブログ

元ミニマリスト、パーソナルカラーオタク。「捨て活」も「買い活」もエネルギーの循環。断捨離は呼吸。

毒母との別れのキーワード「ブラジャー」の歴史を紐解いた結果。

昨日は、毒父との別れについて書きましたが、今日は、毒母との別れについて書きます。

別れというのは、心の中で、母を許し手放すことです。

私の場合、母との別れを語るのに、切っても切れないキーワードがあります。

それは、ブラジャーです。

ところで、ブラジャーは一体いつから私たちの日常生活に上陸したのでしょうか?

 

ブラジャーの歴史。

毒親を理解するのに、時に役立つのが、親が生きた時代背景を考えるということがあります。

理解するということは、「仕方なかったんだ。」と、許すことにつながります。

さて、それでブラジャーの歴史ですが、以下のサイトがとても参考になりましたので、リンクを貼らせていただきます。↓

昭和初期の呼び名は「乳押さえ」だった!日本のブラジャーの歴史と進化 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

興味のある方は読んでみてください。

ところで、私は、母に関係のありそうな以下の部分を、上記のサイトから引用させていただきます。↓

和江商事株式会社(現在のワコール)が、最初にブラジャーを販売したのは1950(昭和25)年のこと。

ブラジャーが庶民に広まったのは、第二次世界大戦が終わった後、昭和25年以降だったということです。

私は、このことを知った時、母が私のブラジャーに気がつかなかったのも無理はないな、と、思ったのです。

母を許す気持ちになりました。

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13歳の祖母と母。

私がブラジャーについて悩んでいたのは、小学校の高学年から中学生にかけてでした。

第二次性徴が目立ってくる中、友達に指摘されたのがきっかけで、母が買ってくれるに至ったのは中学になってからで、13歳の時だったと思います。

母が私のブラジャーを買いに行く話を祖母としているのが聞こえ、祖母は「そんな嫌らしいもの!」と言っていました。

ブラジャーを嫌らしいと言った祖母と戦って、よく私のブラジャーを買ってくれたと、今は感謝にたえません。

これについては、以下の記事に詳しく書きました。↓

ネガティブな感情を認めた結果、母への恨みを手放し、感謝の気持ちが湧いた話。 - 晴れやかブログ

でも、祖母についても、歴史を振り返ってみると、「仕方なかったのだ。」と理解し許すことができます。

13歳の祖母。

祖母は明治生まれ。学歴は尋常小学校6年間だけです。

祖母は小学校を卒業後、すぐに生糸工場に勤めました。

以前『ああ野麦峠』という映画を見た事があります。女工哀史の映画です。

13歳で着物で生糸工場で糸をとっていた祖母の思春期には、ブラジャーのブの字もありません。

また、昔の乳アテのようなものは、もっとシンプルな平たいものだったようです。

終戦後、子育て真っ最中の貧しい暮らしの中、ワコールがブラジャーを発売しましたが、祖母にとっては「女の乳を強調するかのような、トンデモナイいやらしいもの」だったかも知れません。

13歳の母。

母は昭和ヒトケタ世代です。13歳の母は、終戦直後のまっただ中。

セーラー服にモンペ姿の女学生の写真を見た事がありますが、母の思春期はそんなだったのです。

それからしばらくしてワコールがブラジャーを発売したはずですが、13歳の母は、そんなことは夢にも思わなかったはずです。

13歳の私の事情。

上記のように、祖母や母の時代背景を考えると、祖母や母にとって、ブラジャーが「特別なもの」であったとしても仕方ありません。

ところで、私には私の事情があります。

ワコールがブラジャーを発売した30年後の1980年が私が13歳の時です。

ブラジャーをしなければ、中学の体育の制服であるTシャツだけでは丸見えでした。

女工哀史の祖母、終戦直後の母、「仕方なかった。」という言葉は、祖母や母を理解し許すためには有益です。

でも、だからといって、彼女たちの事情を私が引き受ける必要はないのです。

本来の私の仕事

自分がTシャツ1枚で丸見えで困っているというのに、「女工哀史や終戦直後の人に比べたら自分は恵まれている、ブラジャーなんて贅沢なんだ、仕方ない」ではないのです。

 

「仕方ない」は祖母や母を「理解し許す」だけのために使う言葉です。

そして、理解し、許したら、もう祖母の人生は祖母の責任、母の人生は母の責任ですから、私が彼女たちの事情を組む必要はないのです。

私は私の事情でブラジャーを自由に気持ち良く買うというのが、本来の私自身の仕事です。

大人になり、母から別れて精神的に自立するということは、自分で自分の面倒を見ることが出来るようになるということです。

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精神的自立こそが別れ。

毒親育ちで過去に親と対決したり、憎んだり恨んだりしてきました。

20歳のころ実家を離れ、経済的にも一応は自立していたはずでした。

でも、どうにもこうにも親から離れた気がしませんでした。

しかも、私の両親はすでに他界しています。死んでまでも離れた気がしませんでした。

日常生活でいつも母の事がネガティブにアタマをよぎっていました。

でも、ブラジャーがきっかけで、母に感謝してから、母が日常的に私の脳裏をよぎる事がなくなったのです。

母の小言が脳内リピートしなくなったのです。

その分、私の心は静かで穏やかになりました。

ふと気づけば「母と別れることができている。」と感じたのです。

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おわりに

今日は、毒母との別れのキーワードであった「ブラジャー」の歴史を紐解き、その発売が昭和25年であったことについて書きました。

毒親と心穏やかに別れを告げるのに、時に「親の時代背景を考え、相手を理解する」ということが、役に立つ事があります。

毒母の一部は、時代によって形作られていただけだったということに気づくと、許せることもあるかも知れません。