晴れやかブログ

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我慢するクセはどこからきたのか? その原因とは?(心の断捨離)

自分の毒親育ちに向き合う中、「自分は四六時中、1から10まで、我慢している。」ということに気づきました。

このブログでもすでに何度か我慢することをやめるための記事を書いて、気がつけば手放すようにしています。

ところで、この我慢するクセは、一体、何故、どのようにしてついてしまったのでしょうか?

先日、我慢グセがついた原因について気づいたことがありますので、今日はそれについて書きますね。

 

子供時代のインナーチャイルドが学んだ「愛し方」。

人は、3歳までに、家族を通じて、「愛し方」を学ぶのだそうです。この時期のインナーチャイルド瞑想をやっているとき、わたしは、

「あなたの欲求はすべて正しい。」

「(大人の自分に言われて)わたしの面倒をみる必要はありません。」

という言葉にとても反応しました。

「えっ!? 面倒ってみなくていいの?」って、とても意外だったのです。

それがきっかけで、以下のようなことに気づいたのです。

愛し方を学ぶという3歳までの時期のわたしにとって「愛すること」=「相手の面倒をみること」=「自分の欲求は我慢」になっていたのです。

このことについて、もう少し詳しく書いていきます。

「面倒をみる」とは?

3歳児が誰かの面倒をみるなんて、一体どうやって? と思われるかも知れません。

でも、面倒をみるというのは、「相手の欲求を満たす」「相手の気持ちを優先する」「相手を喜ばす」という言葉で言い換えることができます。

このように言い換えるとと、「面倒をみる」ということの正体が見えてきます。

両親を始め、祖父母、キョウダイなど、誰に対しても「相手の気持ちを優先する」「相手を喜ばす」ということなら、3歳児なりにもできるのです。

例えば、「良い子にしている。」ということで、親を喜ばせることはできます。

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やはり、小さな子供は親に褒められたりするのが人生の全てです。「良く出来たねー!」なんて笑顔で言われると、喜んでくれて嬉しいわけです。

それでますます「相手を喜ばす」ことをして面倒をみるようになってしまうのです。

わたしの場合「良い子になることで、親の面倒をみる」ということはかなりやっていたなあと思います。

泣いてわがままを言わないでおこうとこか、大人しくしていよう、とか、そんな風にして親の面倒をみてあげていたんですね。

「お手伝いをする」という面倒のみかたもありました。

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「お手伝い」の全てが悪いわけではないですが、常に仏頂面の親が「お手伝い」をしたときだけ笑顔になるとしたら、子供は「お手伝い」をたくさんすることで親の面倒をみるようになるでしょう。

「面倒をみる」裏側で、「自分の欲求は我慢」。

当然ですが、「相手の面倒をみる」ことの裏側では、「自分の欲求は我慢」することになります。

いつでも誰とでも「相手の欲求を優先」「自分の欲求は無視」となります。

本来3歳児の仕事は、わがままを言って自分の欲求を通すことを学ぶのが仕事だそうです。

でも、親が毒親だったりすると、本来の仕事ができません。人によっては、何を言っても「わがまま」だと怒られたり虐待を受けたりするのではないでしょうか?

それで、自分の欲求を我慢することを身につけてしまいます。

「我慢」は「愛」だという間違った認識。

そして、こうすることこそ「人を愛する」ということは「我慢する」ことなのだと学んでしまうわけです。

子供時代はそれで人生が上手くいったのです。毒親の「毒度」が高ければ、「我慢しなければ生き残れない」ところまでいくでしょう。

それでますます無意識レベルに落とし込まれます。そして「我慢こそ処世術」となります。

でも、成長するに従って、人間関係が上手くいかなくなります。

むやみやたらと夫の顔色ばかりうかがう結婚生活を送るハメになったりもしますね。

自分を害するような相手とつきあいを深めてしまうこともあります。

「我慢」は「愛」だと思い込んでいると、自分の欲求を通すことに罪悪感を感じたりします。

そうすると、いつでも誰とでも我慢してしまいます。

それどころか、一人でいるときも、自分がどうしたいのか? よりも「親友はどうしたいのか?」とか「親はどうしたら認めてくれるか?」とか、「夫はどうしたら…」などと、人の気持ちばかり思いをめぐらせるのです。

我慢しないと人に嫌われると思い込みます。

「愛すること」=「相手の面倒をみること」=「自分の欲求は我慢」

という図式の中で人生が進行するのです。

現在のわたし自身の結婚生活も、この図式の中で進行していました。

「愛すること」=「相手の面倒をみること」=「自分の欲求は我慢」

「結婚」=「愛すること」=「夫の気持ちを優先」=「自分の気持ちは無視」

「結婚」=「愛すること」=「夫の欲求を満たす」=「自分の欲求は我慢」

 このようにして、人生が破滅の方向に進んでいくのです。抑圧された自分の感情、自分の欲求は、いつかどこかで爆発するからです。

「我慢」は「愛」などと、いかに間違った認識をしていたのかと、インナーチャイルドワークを通して発見したとき、とても驚いたと同時に、気持ちが明るくなりました。

我慢をやめなければ大変なことになる!

最後に、「我慢をやめなければ大変なことになる!」ということを、ちょっと汚いですが、おしっこを例にあげてお伝えしたいと思います。

「相手の『おしっこしたい』を優先」=「自分のおしっこは我慢」

ということをしつづけると、いつか必ず決壊します。そして、「自分のおしっこ我慢」はむしろ後で周囲に迷惑をかけます。

「我慢をやめる」というのは「自分の欲求に気づき、自分の欲求の面倒をみる。」ということです。

おしっこ我慢はわかりやすい欲求の例として書きました。我慢は愛ではないのだとわかるはずです。

ですから、相手の欲求ではなく「自分の欲求」だけを考えることが重要です。

相手ではなく、「自分がどうしたい?」です。

親に嫌われたり、夫に嫌われることを恐れないように。

自分の欲求を常に考え、自分のしたいこと、欲しい物について考え、それを満たすことが本来の愛であって、自分の仕事なのです。

この仕事をやらないと、何だかトンデモないところで、意味不明な感情爆発が起こり、小さなことで過剰に怒ったり泣いたりするのです。

親に嫌われたり、夫に嫌われることを恐れないようにするには、罪悪感が伴うこともあります。

でも、どれだけ嫌われても、罪悪感と戦って、自分の我慢はやめるべきです。 

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おわりに

今日は「我慢するクセはどこからきたのか? その原因とは?」というタイトルで書きました。

その原因は幼少期にありました。

3つ児の魂100までということわざがありますが、幼少期に身につけてしまった我慢体質から抜け出すのはとても大変なことでもあります。

でも、「愛」=「我慢」=「相手の顔色をうかがう」とか、間違った認識がここからきているのだと気づいたとき、大きなパラダイムシフトが起こりました。

この大きな気づきは、今後のわたしの人生を変えてくれることと思います。

誰かにどれだけ嫌われても、どれだけ罪悪感があっても、我慢をやめて、自分の欲求を満たしていこうと決意を新たにしました。

それにしても「我慢」=「愛」になっていたとは、驚きでした。こりゃなかなか止められないわけだ。