もう読まない、難しくて読み切れないだろうと思われる、見ると気が重くなって嫌な気持ちになる…という本がいくつかあり、手放すことを決めました。
内容はザックリ言いますと、仏教とか坐禅に関する本です。
それでは詳しく書きますね。
読まない、読めない、気が重くなる本(野望ガラクタ)。
読まない、読めない、気が重くなる本一式です。↓
仏教と坐禅に関する本で、お経とかもあります。私は一時、坐禅にハマっていて、何度かお寺に修行に出かけたことがあります。
禅問答の本もあります。
私は、坐禅をやってみたいと思ってお寺に行きましたが、実は最初の1、2回で「もう十分、もう行かない」と思いました。
坐禅はキツくて自分には無理だと思ったからです。
それでもハマったというのは、「禅問答」を出されたからでした。
問題が出されて、自分の答えを持っていき、答えると次の問題がすぐに出されるというループです。
ハマったというよりは「ハメられた」と言った方が良いかも。
禅問答は永遠に続くかのような膨大な数があります。
でも永遠ではなく、終わりはあります。
「終わりまでやったら、私、スゴイかも知れない!」なんて野望をいだいたこともありました。
ですからこれらの本は「野望ガラクタ」とも言えます。
手放すのには一抹の未練がありました。
もしかしたら、遠い将来、また問題の続きがやりたいと思う可能性もなきにしもあらずです。
それで、もったいないと思う本はスキャニングし、データ化しました。
先日、最後のスキャニングをついに終えました。↓
そして今回は、坐禅に使うグッズも処分しました。
以下の新聞紙にくるまれているのがそのグッズです。↓
「坐禅に関するブログをやるのも良いかも知れない」なんていう野望もありました。
でも、私はブログはこの今のブログだけでも一杯一杯ですし、私には荷が重すぎるテーマだったとも言えます。
自分の部屋に本やグッズがあるというだけで気が重くなっていました。
ここ最近の自分の持ち物の中で、最高潮に気が重くなるのが今回手放したこれらの本やグッズでした。
実は何年も前に一度、仏教と坐禅の本は一度全部処分したことがありました。今回の処分は、その後に再び入手したものです。
またやりたくなったらやればいいし、坐禅をするのに必ずしも本は必要ではないですから、手放して良かったと思っています。
やらなくて良いよと自分を許した。
坐禅を将来やるかも知れない可能性はともかく、「もう坐禅やらなくて良いよ」と、自分に許可を与えました。
とても気がラクになり、ほっとしました。
私は、禅問答とか終わりまでやって「私、スゴイでしょ!」と自慢したかったのかも知れません。
でも、別にスゴい人になる必要はなかったのです。
そもそも「スゴい人にならなくちゃ(ダメ)」という自分へのダメ出しの方が問題だったのだと今は思っています。
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おわりに
読まない、読めない、気が重くなる本を手放して気がラクになったという話を書きました。
長い間迷ってきたので捨てるのはちょっと怖かったのですが、捨ててみると一抹の後悔もなく、本当にとてもスッキリしました!
楽しく生きたいものだと思っているところです。