昨日、古い携帯電話(ガラケー)を1台処分した記事を書きました。
この携帯電話の断捨離は、私にとって思い出の断捨離でもありました。今日はその思い出のエピソードと、それでも処分することにした3つの理由を書きます。
携帯電話の思い出のエピソード。
思い出のエピソードはちょっとセンチメンタルです。興味のない方はスルーしてください。
以下が私が処分した携帯電話です。↓
思い出というのは、すでに他界した父のことです。当時私はこの携帯電話を使っていました。
その2年後、4年前に私は、遅ればせながらスマホにしたのですが、それまでは、かなり長い間このガラケーを使っていました。
この携帯電話には、父の生前の声が伝言メモとして録音されていました。
私は、伝言メモは、簡単な留守番電話機能として使っていたので、たまると古いものは削除していたのですが、父が亡くなった直後、父の声が残っていることに気づいたので、これだけは残しておいたのです。
「そらちゃん、お父さんだけど、プレゼントを送ってくれてありがとう。」
というのがそのメッセージでした。
父が亡くなってからスマホに買い換えるまでの2年間、私は、時々この伝言メモを聞いていました。
この伝言メモを聞いていると、何だか自分がまるで親切で優しい人間であるように感じられました。
私は、あまり親孝行でもなく、マメに贈り物をしていたわけでもありません。独身生活も長く、父には心配ばかりかけていました。
「自分は人間的にはまるでダメだ。」と思っていましたし、父にもアレコレ指摘されていたので、父も私をダメ人間だと思っていたに違いないのです。
それでも、このメッセージを聞くと、父の声は優しく、私の贈り物に対して「ありがとう」なんて言っているのです。
このメッセージを聞いていると、「意外と私は優しい人間かも知れない。悪くないかも知れない。」なんて感じられて、落ち込んでいるときの助けになりました。
私は、ファザコンなんです。
スマホに買い換える時に携帯電話を手放せなかった
私は、本当は、スマホに買い換えるタイミングで、その場で携帯電話を処分したいと思っていました。
でも、データを移行しましたが、伝言メモを移行できないのだとわかって、携帯電話を処分できなくなったのです。
「携帯電話はとっておいて、たまにお父さんの声を聞こう。」と思いました。
スマホにしてから全然聞かなくなった
ところが、やはり、スマホに換えてから、このメッセージを聞かなくなりました。
普段使わない携帯電話をコンセントに繋いだり、充電したりすることは、かなり面倒なことだったからです。
そして忘れた
それから4年の月日が流れました。今、断捨離祭りをしていますが、断捨離でなくてもかなり前から携帯電話を目にするたびに「処分しなくちゃ」と思っていました。
「何でスマホに買い換えた時に処分しなかったんだろう?」なんて、とっておいた理由も忘れていたのです。
私は、今回、携帯電話を処分するのに、個人情報モレを防ぐため、データが消去されているかどうか、念のために確認しようと思って電源を入れました。
データは移行したものの、消去はせずに残してあったようで、メール送受信履歴などもたくさん残っていました。
そして、処分の矢先、思い出した
私は、メニュー項目から順を追って、まずメールデータから、次は画像などと、確認しながらデータを消去していきました。
そして、伝言メモをみると、1つだけ入っていました。
それで、これが父からのあの「そらちゃん、お父さんだけど、プレゼントを送ってくれてありがとう。」というメッセージだということを思い出したのです。
そして、なぜ私が、スマホに換えた時にガラケーを処分しなかったのかという理由も思い出したのです。
父の伝言メモが入っていたから処分しなかったのでした。
このことを思い出しました。そして、今日、この記事に書いたエピソードは、急に蘇ってきた記憶です。
私はその場で何度か伝言メモを聞きました。父の懐かしい声を耳にすると、消去してしまうなんてトンデモナイことだという気がしてきます。
他のデータはどんどん消去しましたが、最後にこれだけ残って、「どうしようか」と悩みました。
また父の声を聞いてみました。
考えた末、伝言メモは消去し、私はドコモショップへ行き、電話機を処分してもらいました。
私が思い出の携帯電話を処分した3つの理由。
私はなぜ、懐かしい父の伝言メモを消去してまで携帯電話を処分することに決めたのでしょうか?
以下にその3つの理由を書きたいと思います。
理由1: 忘れていたのに私の人生はちゃんと機能していたから
まず真っ先に思ったのが、確かにとても懐かしいけど、私は、処分の寸前まで、この伝言メモのことは忘れていたのです。
それにも関わらず、私の人生はちゃんと流れ、機能していました。
私は、この伝言メモがなくても生きて来れたし、これからも生きて行かれると思いました。
これが処分する決意をした一番の理由です。
理由2: 携帯電話がガラクタのエネルギーを放っていたから
とにかく、携帯電話の本体自体は、もう絶対処分だと思えました。ここに疑いの余地はありません。
目にするたびに気持ちはダウンし、「何とかしなくちゃ」と、余分なエネルギーを取られるのです。
これが2つ目の理由です。
理由3: センチメンタルな気分が嫌だったから。
携帯電話を処分した後、夫に父の声が残っていた話をしました。やっぱり少し心残りがあったからです。夫は私の話を聞いて、
「何でそういうの捨てちゃうの!?」と言いました。夫なら持ち続けるのだそうです。
「小さいものなんだから、そんなに邪魔にならないだろうに、とって置けばいいのに。」と、さらに夫は言いました。
「それに、データの移行ができないなら、何かに録音すれば良かったじゃない?」
これを聞いて私は、ああそうだった、その方法があった、と思い、ちょっと後悔しました。
試しにネットで検索してみると、似たようなことで悩む人は他にもいて、ヤフーの知恵袋で質問と回答がいくつか出てきました。
でも後の祭りです。さらに後悔が上乗せされそうになりました。
でも、よくよく考えてみると、私は、結局、父の声をもう聞きたくなかったのだということに気づきました。
父の音声を聞いていると、どうしても、懐かしさとセンチメンタルな気分が湧き上がってきます。
私は、こういう、思い出独特の、何とも言えない、胸が締め付けられるような気持ち自体に浸るのが嫌だと思ったのです。
録音を処分の前に知っていればそうしたかも知れません。ですが、処分した後だったこと自体、無意識のうちに音声を残すことを避けていたのだと思われるのです。
センチメンタルな気分が嫌だったというのが処分を決めた3つ目の理由です。
思い出にひたってセンチメンタルな気分になりたいというときもあるのですが、いつもそうだというわけではありません。
こういうのって、まるでセンチメンタルな映画を見ているようなものです。
泣ける映画とか、悲しい映画とか、切ない映画とか…、何故かそんな気分にひたりたくてわざわざそんな気分になるとわかっている映画を見るのです。
何故そんなことをするのかというと、自分の人生に足りないドラマチックなものを補ったり、または、自分の心の傷と似たようなドラマを見ることで傷を癒そうとするからです。
でも、今は、わざわざそんな気分を味わおうという気にならないんですね。
(ただ、結局のところ、思い出にひたるのって、ヒマなんだと思います。)
思い出の断捨離をして後悔してしまっている人へ
最後に、もう一つ気づいたことがありましたので書きます。
懐かしい伝言メモを残す人=心が暖かい人
残さないで消去する人=心が冷たい人
私は、このような価値観に縛られていたことに気づきました。
本当は消してしまいたかったのに、心が冷たい人だと思われるのが嫌ですぐに消去できなかったのです。
でも、伝言メモを消したからといって、必ずしも心が冷たいとは言えないというのが真実なフラットな考えです。
また、同様に、伝言メモを残す人が、心が暖かい人だとは限りません。
伝言メモを残すかどうかということと、心が暖かいか冷たいかということは、別の問題であって、この二つに本来、相関関係はないのです。
この事実に気づいてから、私は、伝言メモを消去したことへの小さな後悔と自分を責める気持ちが溶けていきました。
思い出の断捨離をして後悔してしまっている人は、もしかしたら似たような価値観が背景にあるのかも知れません。
捨てる人は冷たい人で、とっておくのがあたたかい人であるという価値観です。
もしそのような価値観を発見したら、手放してみると、とても気持ちがラクになります。
また、「冷たい人=悪」ということでもないですね。
別に自分が冷たいからって…もっと正確に言えば、冷たい一面を持っているからといって、それで人間失格かというとそんなこともないのです。
冷たい自分OKと思えれば、さらに気持ちはラクになります。
それから、後悔しても良しとすれば、後悔しても気持ちはラクなのではないでしょうか?
後悔や失敗なんて、誰にでもいくらでもあるものです。後悔している自分を許せれば、後悔しても苦しくなくなるのです。
応援に感謝してます♡
おわりに
今回は、携帯電話と、その中に入っていた、懐かしい父の音声を処分した理由について書きました。
私は亡き父の音声が入った携帯電話という思い出の品を消しました。
普段このことを思い出すことは殆どありません。でも、こうして、自分のブログに記録し、それを後で読み返すと、同じような気持ちが蘇ってきます。
もし、「なかなか捨て難いけど捨てたい」と思っているなら、ひとまず、ブログや日記などに書き記すと良いかも知れないですね。