「リサイクルは捨てるよりもずっと良いのか? 消費社会への警告」というタイトルで書きます。
今日の記事も、昨日同様、ドミニック・ローホーさんの『捨てる贅沢』という本を読んだことからの「気づき」です。
ドミニック・ローホーさんは、「リサイクルできるモノはリサイクルしましょう。」と言った上で、リサイクルの危険性についても語っています。
リサイクルも消費であるということ。
まず、私が「ピン」ときた一節を引用します。
リサイクルも、再利用も、消費することには変わりありません。
(中略)…
このリサイクルや再利用の危険は、まさに「リサイクルは無駄遣いではない」と思わせることなのです。そして、これをいいことに私たちの消費意欲はさらに刺激され、これが、また買う、売る、買う、売るといった悪循環を作ります。
手持ちのモノを処分するために、できるだけリサイクルするのは良いことだと私も思います。
でも、リサイクルに回せば、いくら買っても良いのだ、という考え方になってしまうと、それは、買っては捨てて、捨てては買っての悪循環と同様の悪循環を引き起こすというわけです。
リサイクルに回っているものが多すぎる。
ときどき、私は、リサイクルに回すよりも、ゴミに出して燃やしてしまった方が親切なのではないかと思うことがあります。
例えば、プラスチックの資源ゴミ、8割は再利用できずに燃やしてしまうのだと、少し前に何かで聞きました。
これを聞いたときはショックでした。
それから、私は古着をリサイクルショップに持っていきますが、洋服として売られるものだけでなく、資源として再利用するものが山積みになっています。
リサイクルは「捨てる」罪悪感の一時のがれにすぎない?
リサイクルに回すのは、捨てる罪悪感から一時のがれをしているだけなのではないかと思うこともあります。
例えば、リサイクルショップで買った古着を着古して、もう一度リサイクルできるかというと、無理だと思います。もう誰も欲しい人はいなくなると思います。
リサイクルショップで買った服の次は、着古して結局ゴミになるんだと思います。
服の再利用は、リサイクルショップに売るだけではなく、「誰かにあげる」というケースもありますが、本当に欲しいという相手でもない限り、捨てる罪悪感や責任を、相手に押し付けているだけだと感じることもあります。
売るのも捨てるのも同じこと。解決の糸口は消費を減らすことだけ。
ここでドミニック・ローホーさんの提案する解決法を書きます。以下、本の引用です。
私たち一人一人が消費そのものを減らしていけば、その消費からくる問題全体を解決できるのです。私たちが「買わない」と決めれば、生産、流通、そして廃棄に至るまで、そのモノ一つ分だけ少なくて済むからです。
「何も買うな!」ということではありません。無駄な買い物や浪費をやめましょうということです。
つい無駄買いをしてしまう私にとっては、薬(くすり)になる考え方です。月並みな言い方ですが「よく考えて」買い物をしたいと思いました。
ドミニック・ローホーさんの『捨てる贅沢』
最後に、ドミニック・ローホーさんの『捨てる贅沢』について少し書いておきます。以下が本の表紙です。↓
この本はアマゾンでも買えます→『捨てる贅沢』
ドミニック・ローホーさんといえば、『シンプルに生きる』が最も有名で、この本をシンプルライフのお手本にしている人も多いのではないかと思います。。
『捨てる贅沢』も同系統の著作ですが、最近のミニマリズムやシンプルライフなどへの問題点も新たに扱われていて、読みながら共感したり、考えさせられたりもします。
これから何かシンプルライフの指南書を読みたいという人にもおすすめです。
応援に感謝してます♡
おわりに
今回は、ドミニック・ローホーさんの『捨てる贅沢』から得た、快適なミニマリズムやシンプルライフへのヒント、「リサイクルも消費である」ということについて書きました。
「買っては捨てて、捨てては買う」と「買っては売って、売っては買う」は、同じ消費であるというわけです。その通りだと思いました。
今の手持ちの不用品は、できるだけリサイクルするのは大事なんですが、「リサイクルするからいくらでも買って良いだろう。」という考えになりがちなのは、リサイクルのもつ危険性だという指摘は、心にとめておきたいことです。
この本で得た「気づき」はこれだけではありませんでした。別の記事でまた書きたいと思います。