最近ふと得た気づきについて書きます。気づきというのは「手放すことと断つことは違う。」ということです。
「物へのダメ出し」を自分がしていることに気づき、その結果として感じたことです。
それでは詳しく書きますね。
最近気づいた「物へのダメ出し」。
私は、毒親育ちで、「自分へのダメ出し」や周囲の人へのダメ出しをやっていることに少し前に気づき、やめるようにしています。
ところで、最近「物へのダメ出し」もたくさんやっていることに気づきました。
例えば、飲食物です。お酒などの嗜好品とか、インスタント食品は体に悪いとか、清涼飲料水は体に悪いとか、食品添加物はダメとか…。
これらのダメダメづくしは、親からの影響も大です。子供の頃、そのように教えられ、そのまま信じ込んで、あまり明確な根拠もなく「ダメ」だと思っていました。
幼少時、カップラーメンダメとか、コカコーラ飲んじゃダメとか、ガムはダメとか、色々と禁止事項がありました。
これらの「物へのダメ出し」は、飲食物だけではありません。
ダメ出ししていたものはまだ他にもあります。
化学繊維の服はダメもその一つです。
化粧品などへのダメ出しもたくさんあります。「ケミカルなものダメ」とか、「無添加でなくてはならない。」とか…。
挙げ出したら、もっと他にも色々と出てきます。
「物へのダメ出し」が多いと、生活や人生が苦しくなります。これが問題です。
手放すことと断つことの違いとは?
そこで、今日の話題、手放すことと断つことの違いについてです。
「これはダメだから排除しよう」というのが「断つ」ことで、ダメルールにしばられて息苦しさを感じます。
一方「手放す」というのは、「ダメ出し」辞退を手放すと考えると、とても自由な気がします。
カップラーメンを例にすると、「体に悪いからダメ」として完全に排除すると息苦しいですし、非常時などは役に立つこともあるので、必ずしも「悪」とは言い切れないのです。
「毎日毎食たべつづけるのは問題だけど、カップラーメンにはよい面もある。」というユルさには、執着がありません。
これが私がこの記事で言っている「手放す」ということです。
反対に「カップラーメンは絶対的に悪いから断つ」というのは、執着の裏返しで、目の前にないのにもかかわらず「気にしている。」という執着があるのです。
「物へのダメ出し」は執着の裏返し。
物へのダメ出しは執着の裏返しですから、「ダメだから捨てる」「ダメだから買わない」ということでは、人生が息苦しく寂しいものになります。
「(自分にとっては)もういいかな」という感じで手放すのは、同じ「捨てる」でも「ダメだから捨てる」のとは大違いです。
私は、特に化粧品や飲食物に関しては、自分はかなり「ダメ出ししてたなあ」と思います。
それで、例えば「ケミカルな合成シャンプーはダメ」という想念をひっつかんでいて、合成シャンプーなんて持ってないのに、いつでも常に「合成シャンプーについて考えていた」のです。
これって、ダメ出しをしているからこそ、合成シャンプーに、裏返しとしての執着を持っていたってことだったんです。
応援に感謝してます♡
おわりに
「物へのダメ出しをし過ぎていた自分」に気づいた結果として、手放すことと断つことの違いについてさらなる気づきを得、自由な気持ちが湧いてきました。
それで、この自由な気持ちをお伝えしたくてこの記事を書きました。
多少「言葉のアヤ」みたいな面もあり、とっちらかってしまい、スミマセン。
個人的な「好き嫌い」はよいのです。「嫌い」=「ダメ」というときにも「ダメ」という単語を使う事がありますが、その「ダメ」はよいです。
でも、絶対的な善悪の尺度としての「ダメ」は、単なる執着の裏返し、物を断って、目の前に物がないのに心を苦しめることにつながります。
「ダメ出しという執着」を手放すとラクになります。